「ウィズコロナの世界のこの国において、人に身をあずけることの豊かさは、あまりに軽んじられている。」と、序章の文章から「ふれる」ことへの愛情に満ちていたこちら。
人の身体にふれる(さわるではない)仕事をしながら、教えられてきたことや、自ら体感して学んできたことが、本の中で丁寧に概念化され、言語化されている、そんな本でした。
「ふれる」とオキシトシンが分泌するとかいった、科学的な分析も興味深いけど、哲学的考察ってものはすごく面白いし、しっくりくるなぁと、伊藤亜紗さんの分かりやすい文章を読みながら思いました。
特に大切と感じた言葉は、これら。
「ふれることは、相手の内側までを感じる行為」
「ふれることは信頼があって成り立つ」
「触覚により自分の輪郭を取り戻すことで、精神的な安心や、確かさの感覚を取り戻すことがある。」
「ふれ方が変われば、引き出される性質も変わる」
「ファーストコンタクトはお互いに不確実性があり緊張を伴う」
「ふれるは双方向」
「共鳴は、意図したもの以外の情報も分け隔てなく伝える」
「声かけは、共鳴を分断し、「個」のスイッチをいれてしまう。」
以下、本の中からの抜粋ですので、ご興味あればお読みください。
「さわる」は一方的で物的なかかわり、「ふれる」は相互的で人間的なかかわり。(坂部恵)
触覚は、親密さにも暴力にも通じる。
視覚は相手との距離を前提にしているが、触覚は距離がゼロである。
ウィズコロナの世界のこの国では、人に身をあずけることの豊かさが、あまりに軽んじられている。
フォークダンスで感じた、クラスメイトと手を取り合うことの違和感。
目ではなく、手を介した人間関係がある。
サルトルにはじまる「まなざしの倫理」に対し、「手の倫理」というものを論じたい。
道徳とは、すべき、という画一的な正しさ、倫理とは、すべきだができない、という迷いを含む。
人と人との違いを指す多様性はしばしばラベリングにつながる。むしろ、1人の人が持つ多様性を尊重することが大切なこと。
西洋哲学において、五感のうち視覚、聴覚が上位に位置付けられ、嗅覚、味覚、触覚が下位に分けられている。
触覚が下級の感覚とされるのは、「距離のなさ」、「頭脳でなく肉体的欲望に従属していること」、「時間がかかること」が理由である。
触覚は、ふれるとともに、ふれられるという対称性がある。
触覚により自分の輪郭を取り戻すことで、精神的な安心や、確かさの感覚を取り戻すことがある。
ふれ方が変われば、引き出される性質も変わる。
ふれることでわかるのは、感触、全体の形、細部の形、硬さ、重さ、温度の6つである。
哲学者ヘルダーは、視覚は横に並ぶもの、聴覚は時間的に前後するもの、触覚は内部的に入り込むものとしてとらえる感覚と定義した。
触覚は「距離ゼロ」どころか「距離マイナス」で、対象の「内部をとらえる感覚」であり、生き物の内部の流れを感じることができる。
ふれる人は、まずその相手に信頼してもらわなければならない。
安心は想定外のことが起こる可能性がゼロであることに対し、信頼は社会的不確実性があるにもかかわらず相手がひどい行動はとらないと考えること。
ふれる側の不確実性は、相手のリアクションが読めないこと。ふれられる側の不確実性は、どのようにふれてくるか分からないこと。接触とは、この2つの不確実性が出会う出来事である。
相手を信頼しないとそもそも接触は成り立たず、ファーストコンタクトの瞬間はリスキーで緊張を伴う。
視覚障害の人が声をかけてくれる人に委ねるときは、だまされる覚悟で委ねる。そして、そのような人の無責任のやさしさで生きている。
「さわる/ふれる」はアナログで物理的なメディア。その場にいることが前提である。
一方、「書く」「話す」は、記号的でデジタルなメディア。コード化され、離れた地にも送れる。
「さわる」は一方的にメッセージを伝える伝達モードであるのに対し、「ふれる」は双方向的にメッセージがやり取りの中で生まれていく生成モードである。
ブライドランナーと伴走者とロープを介して、共鳴し、コミュニケーションをとっている体験。
相手の緊張や感情までもがロープを通して伝わってくる。
声かけは、共鳴を分断し、「個」のスイッチをいれてしまう。
共鳴は、意図したもの以外の情報も分け隔てなく双方向に伝える。あずけると入ってくる。